自己責任論について

 「自己責任」という言葉が世の中ではすっかり定着しましたが、本来の意味での「自己責任」が成立するには、「(主に精神的に)自立した個人」であることが大前提となっています。ここでの「個人」とは、individualというニュアンスでの「個人」で、「あなたと私は違う人。私の内面の領域に私が望んでもいないのに他人に立ち入られたくはないし、相手が望んでもいないのに他人の内面の領域に私も立ち入らない」などと言い換えることもできます。

 しかし、過去現在にわたって多くの日本人は、自己と他者の境界が曖昧です(=自立した個人とは言えない)。「自立した個人」は日本では少数派です。それは農耕民族的ムラ社会やら島国根性やら甘えの文化やら、そういったことに起因します。

 聖徳太子の定めた「十七条の憲法」の冒頭の「和を以て貴しとなす云々」に代表される思想は日本特有のものかもしれません。一般的日本人は現代でも「和(なごやかな状況・争いごとの無い状況)」を最良のものとし、必ずしも問題解決を最優先とはしない傾向が強い。会社や地域コミュニティやPTAといった「世間」で脈々とそのカルチャーは受け継がれています。「理屈で考えたらおかしい、理不尽だと思うけど、あの人(上司だったり先輩だったりボスママだったり)に逆らうと『空気読めない人』と思われるから黙っておこう」などというシチュエーションがまさにそれです(ちなみに「空気」というワードは日本人論に欠かせないワードです。そこに確かな「論理」は存在しません)。

 他人ありきで自分の意見などまるで無いかのように振る舞う人(≒自己と他者の境界が曖昧な人)が日本では今でも多数派だし、それが美徳であるとすら思われています。 そのようなカルチャーを真向から否定する訳ではありません。そのようなカルチャーには長所(例:抜群の治安の良さ)と短所(例:同調圧力の強さ)の両方があるからです。
 

 しかし、冒頭でも述べたように、「自己責任」という考え方は、本来は「自立した個人」が前提となる考え方です。この「自立した個人」とは、「強い個人」でなくてはならず、元々はキリスト教的思想に立脚した考えた方です(「告解」というシステムなどによって、人間は初めて自己の内面に向き合うようになり、「個人」という考え方が成立した)。キリスト者でなくても「個人」で在る事は可能ですが、それにはかなりの強い意志(あるいは確固たる思想、あるいは経済力、など)が必要となります。・・・果たして一般的日本人に、本当の意味での「自己責任」を各々が取る覚悟はあるのか?答えは否だと思います。自己責任論は、日本国民を不幸にする思想です。伝統的に他者(家族であったり、共同体としての世間であったり)と常に「もちつもたれつ」の関係を維持し続けてきた、かつ「唯一神」を持たない日本人には、合わないし過酷な考え方です。ちなみに「自己責任」は新自由主義ネオリベラリズム)とも親和性の高い考え方ですが、新自由主義ネオリベラリズム)は既に多くの日本人の生活を蝕んでいますし、日本社会をギスギスしたものにしてしまった。今のように声高に「自己責任」という言葉が巷間に流布されるようになったきっかけは、「イラク人質事件」がだったと記憶していますが、そういえば当時の首相は、新自由主義ネオリベラリズム)を日本に定着させた小泉純一郎氏でしたね。